富士の信仰と化儀(御本尊の御安置)

■一、御本尊の安置
〈一、御本尊下附〉
御本尊の尊さについて、宗祖大聖人様は自ら
「仏滅後二千二百三十余年の間、一閻浮提の内未曾有の大曼荼羅なり」
と、御本尊様に向かって右下に示されました。これを『讃文』と申しますが、インドの釈尊入滅後、二千二百三十余年もの間、未だかつて顕されたことの無い、末法の私たち一切衆生が成仏得道を叶えられる唯一の大御本尊であるとの、示し書きです。
また、『経王殿御返事』には有名な、
「日蓮がたまひい(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」(全集1124頁)
と、曼荼羅御本尊が大聖人様の御魂であると仰せです。
したがって、我々信仰者にとって命にも代え難い宝が御本尊であることは、申すまでもありません。
大聖人様の時代に、「領家の尼御前」と呼ばれたご信者がありました。この方は大聖人様のご両親もお世話になった領主のご婦人ですが、竜ノ口の法難そして佐渡流罪ということになった時、退転してしましました。
しかし大聖人様が佐渡配流を赦免されて身延へ入られると、御本尊の御下附を所望されてきたのです。
しかし大尼のこの身勝手さ、不信心に大聖人様は俗縁の恩を感じられながらも、信仰における筋目を大切にされ、御本尊の下附を許されなかったことが、御書(新尼御前御返事 同904頁)の中にうかがわれます。
日興上人もその御精神を承け継がれ、
「在家出家の中には或いは身命を捨て或いは疵(きず)を破り若は又在所を追放(ついほう)せられ一分信心の有る輩に忝(かたじけな)くも書写し云々」(富士一跡門徒存知の事 同1606頁)
と、まさに不自惜身命の信心を行じた僧俗に対してのみ、御本尊下附が許されました。
このように、宗開両祖の大変厳格な態度が、本宗における御本尊下附の伝統となっております。
よって、もうすでに御下附を受けている方にあっても、身の福徳と護持の重大さを常に忘れてはならないと思います。

■二、如在の礼
日興上人は信徒よりの御供養の品々を御宝前にお供えし、そのつど大聖人様に御報告申し上げておられたことが、そのお手紙よりうかがえます。
一例を挙げれば、
「御経日蓮聖人の見参に申しまいらせ候」
「法華聖人の御見参に申し上げまいらせ」
「聖人御影の御見参に入れまいらせ」
等の御文が数多(あまた)見られます。
すなわち日興上人が宗祖御入滅後、曼荼羅御本尊と宗祖御影像を御安置されいたのは現在の総本山御影堂のごとくであって、当時から、常住此説法の想いを懐かれて日々勤行唱題なされていたものを拝されます。
これを『如在の礼』と申します。
いわゆる御本尊ましますところ御本仏大聖人様が常にましまし、日々説法・御化導あそばされているとの想いをもって、お給仕申し上げておられたものであります。
日興上人が御影を造立され、如在の礼をとられていたことは、とりもなおさず、日興上人が大聖人様を末法の御本仏と拝しれおられた故であることは、申すまでもありません。
現在、総本山や由緒ある一部の寺院等を除いて御影様の御安置は見られませんが、私たちもまた寺院であれ、各家庭であれ、御本尊ましますところ常に大聖人様がおられるとの想いをいたし、『如在の礼』をもってお給仕・勤行できる信心をしたいものです。

■三、仏智に適った御本尊
上に記した御影様の御安置は、あくまでも日興上人の大聖人様への渇仰恋慕の心から起こった化儀と拝されます。
もちろん御法門の上からは、
「問うて云く末代悪世(あくせ)の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄 同365頁)
と仰せのごとく、本宗では十界互具の曼荼羅をもって御本尊とするのであります。
日興上人もまた、
「聖人御立(ごりゅう)の法門に於いては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任(まか)せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是れなり」(富士一跡門徒存知の事 同1606頁)
と、明らかに仰せられています。
いわゆる御影を図するのは大聖人様のお姿を「所詮は後代に知らしめんが為」なのでありますから、私たちは(御影を貴ぶあまり)曼荼羅御本尊を根本とする信心を忘れてしまってはなりません。
由来、大聖人様が『開目抄』に「諸宗は本尊にまどえり」と仰せのように、信仰の根本である本尊に迷ってきたのが仏教の歴史であります。
これは、本来、仏意に基づいて本尊を定めるべきを、迷いの衆生の心に任せて本尊をとってきた故であります。
大聖人門下においても、五老僧門流での本尊迷乱、また日興門流でさえ京都要法寺は、仏像造立の謗法を犯しました。こうした邪義に対し、日寛上人は、『末法相応抄』で厳しく破折されております。
このように日蓮正宗のみが、大聖人様の心を心として、宗祖の時代より七百年間いささかも変わらず、寺院在家、僧俗共に全く同じ御本尊を掲げ、今日まで信仰してきたことを銘記しておきたいものです。

■四、根本尊敬の大事
大聖人様の認められた御本尊は多くあっても、御出世の本懐は、本門戒壇の大御本尊に一切が尽くされているのであります。
よって、身近な家庭の中に御本尊が御安置されていても、その御本尊を通して、大聖人様の御法魂である本門戒壇の大御本尊を拝するという、筋目を立てた信心が何より肝要です。
この点については、歴代上人が御開扉の折、登山者に対して御説法なされた御文が遺されておりますが、今、第六十世日開上人のものを挙げてみます。
「当山より授与する所の御本尊は、末法の一切衆生に御授与遊ばされたる此の(本門戒壇の)大御本尊の御内証を、代々の法主唯授一人の相承を以て之を写し奉り、授与せしむる事なれば、面々の其の持仏堂に向かっても直ちに此の大御本尊を拝し奉る事よと相ひ心得、受持信行する時には、其の所直ちに戒壇の霊地、事の寂光土なる程に、臨終の夕べに至るまでも此の大御本尊を忘れ奉らざる様に致さるべし。然るときは即身成仏決定として疑ひなきなり云々」
すなわち御本尊を受持する者は、常に本門戒壇の大御本尊を根本とする信心が大切であるとの御指南であり、この筋目にしたがってこそ大聖人様の大慈大悲は我が家の御本尊より頂戴できることを、忘れてはなりません。
したがって、いつも家で御本尊を拝んでいるからといって、総本山への登山を軽んじたり、地域の法城たる寺院への参詣を疎かにすることは、根本を見失った姿であり、正しい信心とはなりません。
自宅に御本尊を御安置できることはすばらしいことですが、自分たちの願いを叶えて貰うため、我が家を守って貰うため等々の信心に止まること無く、御本仏大聖人様に渇仰恋慕する心を第一とすべきであります。
また、御安置は家の中で最適な場所を選ぶのは勿論、お水の上げ下げ・お華(樒)の取換え、仏壇のお掃除、毎日の仏飯や四季折々の初物のお供え等、大聖人様にお仕えする真心をこめて行うことが大切です。

大白法 第361号より転載