富士の信仰と化儀(序二)

■序二
(大聖人様における化法・化儀)
『義浄房御書』に、「一心欲見仏不自惜身命」のお経文を挙げられて、
「日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり」(全集・892頁)
と仰せであります。
日蓮大聖人様は、建長五年四月二十八日の立宗宣言より、法華経の行者としてのお振る舞いを昇華される中で、末法の御本仏としての大慈大悲の当体を、大御本尊として顕されました。
ですから大聖人様の御本仏の境界は、大難四ヶ度、小難数を知れずの法華経色読という、不自惜身命の実践修行が伴っていることを忘れてはならないと思います。
一言でいえば南妙法蓮華経であります。その内証をそのまま事の一念三千の御本尊という形・事相に建立遊ばされたのですから、御本尊は法体そのものです。
さて、その悟りの御境界を自分だけのものとせず、さらに衆生にも知らせめんとの大慈悲によって、時の衆生に対して御説法・教化がありました。これを法体の下種と言います。
このように、仏様の衆生化導というお振る舞いの上から法体を見た場合、この法体こそが「化法」であります。教化される法そのもの、下種される法そのものということです。
しかし、先に述べたように、法体・化法には大聖人様の自行・化他にわたる不自惜身命のお振る舞いが具わっております。
「今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南妙法蓮華経なり」(三大秘法稟承事・同1022頁)
であります。
そのお振る舞いが大聖人様における「化儀」でありましょう。前回の紙面にも引用いたしましたが、
「上行菩薩の化儀」(右衛門太夫殿御返事・同1102頁)
というお言葉を使われておられます。
いわゆる御内証、法体の具体的表明が、化儀であります。
したがって、大聖人様御一身の上に化儀と法体(化法)を拝しますと、これ等を切り離して考えることはできず、常に一体であり、化儀即法体、化儀即化法であることが理解できると思います。

■化法・化儀の相伝
御書に、
「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ」(四菩薩造立抄・同989頁)
とあります。
我々が大聖人様の下種仏法を持つにあたっても、大聖人様の御修行・お振る舞いを実践してこそ、同じ妙法の境界を開くことができるのです。
もちろん、末法であることに変わりないとはいえ、仏道修行も時に応じ、世情に順じて変化すべきこともありましょう。
また、御本仏の御本尊建立のお振る舞いと、我々一介の凡夫の仏道修行とでは、必然的に違いがあると言えるかもしれません。
しかし大切なことは、いつの世にあっても大聖人様の御意に適った、正しい仏道修行が伝えられていかねばならないということです。
そのために、常随給仕による仏法伝授が本宗では重んじられるのであります。

■化法・化儀の相伝
いわゆる師匠に身をもって仕えるという、師弟相対の信心です。
その根本は、日興上人が宗祖大聖人様に常随給仕せられて、御法門の一切を承けられたことで、その中に自ずと大聖人様の化儀・化法の伝授がなされているのであります。
さて日興上人は、こうして会得された宗祖の御精神・御信条を、
「富士の立義、聊かも先師の御弘通に違せざる事」(日興遺戒置文 同1617頁)
の条目で始まる遺戒置文二十六カ条として遺されました。
我々大聖人様の教えを信仰する僧俗の、根本信条として今日まで貴ばれてきております。
そして日興上人は日目上人に血脈相承遊ばれ、以下御相承を承けられた歴代の御法主上人が、遺戒置文二十六カ条にもとづいて、時々の僧俗に対し正しい仏道修行の御指南を遊ばれるのであります。
それらの御指南が本宗の化儀として整束されていきますが、とりわけ第九世日有上人の御指南は有縁のお弟子方が筆録せられ、『化儀抄』やその他数種類もの聞書として残されております。有師『化儀抄』は、宗風を今日に伝える、貴重な化儀の指南書として扱われております。
しかしながら、本宗の化儀はあくまでも師匠と弟子の信心の振る舞いのところに生きているというべきです。
正宗僧侶の育成をみても、総本山に上り御法主上人御慈悲のもと、不文律の山法山規を守って修行する中で、知らず知らずのうちに化儀も修得されていくものです。
日有上人の『化儀抄』等が、弟子による筆録という形で残されているというのも、やはり弟子が日々日有上人に仕えて、化儀等を修得していった一つの現われであると拝されます。
ですから、今日の一般御信徒にあっても、総本山や所属寺院に折々足を運んで法会に臨み、さらに住職の指導等を受ける中で本宗の化儀が理解されていくのでありまして、書物等で学ぶのは、あくまでもその手助けというようにとらえるべきでしょう。

■化儀の時代性
現代は現代に則した化儀の在り方が模索される必要もありましょうが、僧俗の当事者が論議を尽くすことはあっても、最終的には血脈付法の御法主上人が、大聖人様の法体を御持遊ばれてる御境界において、裁断・教示遊ばされるのであります。
僧俗個々において、あるいは昨年の創価学会のごとく、勝手気ままな改変は、宗祖大聖人様から流れ伝えられてきた精神・信条・気風等をそっくり捨て去ってしまうのと同じで、誠におこがましい行為であります。

大白法 第357号より転載