富士の信仰と化儀(序一)
■序一
正宗の化儀は、大聖人の振る舞いが総本山に山法山規として伝えてこられていることを根本とします。
化儀とは化導の儀式であると同時に、私たちの信仰心の表れです。その化儀を学んで自分の振舞いを確認したいという心が私たちにはあります。
本欄では、化儀の所作・仏事の具体的な説明の前に、化儀の受け方から入りたいと思います。
■化儀から連想するもの
化儀という言葉で我々が連想するものは何でしょうか。
儀式を第一に考えればまず、総本山の御大会式の場面が想像されます。
大きなかがり火が参道の両わきに燃え上がり、宵闇の光と影の濃くなった石畳の上を、御法主上人御一行のお練りの行列が御影堂に向かいます。
御堂の中では、古義に則った御説法があり、続いて満座の耳目が注がれる中で、三三九度の御盃の儀が行われ、師弟の契りが披露されます。
また、形に表したものという点では総本山の伽藍そのもの、仏法のあり方・霊山浄土の法門を表した壮大なスケールの化儀と言えないでしょうか。
そして何より、信仰者にとって正しい形での朝夕の勤行、御本尊様へのお給仕は最も大事にされなければなりません。
正宗の化儀は、妙法と御本仏、即ち人法一箇の御本尊への信仰者としてのあるべき一念の内容を、様々な形に表したものと言えます。その究極は宗祖の説かれた妙法と一体になることです。これを化儀即化法と言います。
近年、「形式は関係ない」と化儀そのものを閑脚する風潮もあり、「化儀は古くさい」と省略していく人もいます。
今、伝統的な化儀がどうのような意義を持つのか、改めて考えてみる必要があります。
■心と形
忍ぶれど 色に出にけり 我が恋はものや思ふと 人の問ふまで
右の百人一首四十番、平兼盛の歌は、心と形の密接不離なつながりが出ている例としてあげたものです。
こらえ忍んでいたけれど、とうとう素振りに表れてしまったことだ、私の恋心は。「物思いをしておいでですか」と、人が尋ねるほどに。
かくしきれないで、人に気付かれるほど現われてしまった恋心を歌っています。
心を深く沈潜(ちんせん)するほど、やがて形に現れずにはおきません。心と身体は相互に関連し合います。人は緊張すると、自然に力が入り肩が張ります。心の状態は敏感に身体に現れます。
心あれば形あり、と言います。逆に形があれば心があるのです。
共に真実です。
心に抱いているものは形に現れます。心に受持しているものは、振る舞いとなって出ます。
心に思うことは、形(色)に現れます。そこに心と色(身・形)とは二にして一であるという色心不二の姿があります。
形を見れば心が読めます。形を軽んずる人は、その奥の心を軽んじることになります。
心の思いは、言葉か文字か振る舞いにしなければ形をなしません。仏道修行では、これにもう一つ「行為」が加わらなければ仏教という形で他に示すことができません。人に伝えることもできません。
仏教とは心と体が一つになって自然と発動するところにあるのです。
仏道の修行とは、「繰り返し身に付ける」が本来の意味で「戒香薫習」(かいこうくんじゅう)とも言います。戒めの香で身体を薫じて、悪をなさず、善行を行い、心を清らかに保つ習慣を身に付けることこそが仏教に他なりません。
心をよくコントロールするには、身体を整えることが近道となります。
化法化儀の真髄も形を整えた化儀を知ることで、化法の信解に通ずることにあります。
■正宗の化法と化儀
化法と化儀は元来、天台宗の教学用語でした。
化儀とは化導の儀式の意で、衆生を導くための方法です。化法とは導く教法の意で、教えの内容です。
天台宗では化儀の四教(頓・漸・秘密・不定)(とん・ぜん・ひみつ・ふじょう)と、化法の四教(蔵・通・別・円)(ぞう・つう・べち・えん)をたて、合わせて八教とし、法華経を最高の教えと示す五時八教の項目としています。
化儀は化法に対するものですが、切り離して対立的に考えるものではありません。医薬に譬えますと、薬が化法で、薬の使用が化儀と言えます。
どちらが欠けても病に対する働きはありません。化法と化儀と両方相まって正しい信心修行ができます。仏道にいそしむところに両方が具足しているのです。
正宗における化儀という言葉は、
『右衛太門太夫殿御返事』(うえもんたゆうどのごへんじ)に「貴辺も上行菩薩の化儀をたすくる人なるべし」(全集・1102頁)
とあるように、大聖人のお振る舞いをさします。その後の日興上人の『二十六ヶ条』と日有上人の『化儀抄』で信条と化儀の大綱が定められてあります。この二つを元に、他に色々な不文律の規則が加わって総本山の大石寺の山法山規が今に伝わっているのです。
総本山にいれば、知らず知らずのうちにその信条化儀が身に付き、言わず語らずのうちに身に行っているものなのです。
次に正宗での化法と化儀の関係について述べましょう。
化法とは教法の内容そのものであり、仏心である妙法五字に摂収されます。私達は化法は心で見るのもであり、信受したものは心の世界です。
化儀とは教法を形にしたものであり、私達の側から言うと、信心の心構えを持って化法は心で見て振る舞うことです。修行の仕方や形式がこれです。
従って化法は三世を超えて普遍ですが、化儀には正宗七百年の伝統があります。そして妙法の世界と化法と、現象世界での化儀が一体であるところに化儀即化法の事行の意味があります。
「釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(崇峻天皇御書 同1174頁)
とあるように化儀を正しく振る舞うことこそ仏の心に叶うものだと自覚することによって、化儀即法体に域に達するのです。
そして一人ひとりの信仰の確証を深めていくことになるのです。
※葛飾北斎は、著書「略画早指南」で「いっしんとかいて、ひとのかたちをなす也」つまり、一心と書けば人のかたちを描けるといっている
大白法 第355号より転載